押上・業平(町のおこり)

町のおこり

この町は江戸時代は押上村の一画の字何何と云ったが、明治二十四年に押上町となった。押上の地名の由来は、むかし今の北十間川が現在の京成橋あたりの所まであったらしい。そこへ常に潮が押寄せ押上げた所からこの地名が興ったと云われている。

さて、現業平地区が、本所区に編入されたのは明治22年5月1日、東京市制が施行されたときである。押上村はそれ迄は南葛飾郡に属していたが、市制実施で本所区に編入され、これをきっかけに、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島押上町、向島小梅町、新小梅町、押上町、中ノ郷業平町、柳島元町、柳島梅森町という9つの新しい町が誕生した。このうち中ノ郷業平町、押上町、柳島元町の3町が北十間川の南、大横川から東へ数えて順に並んだ。業平地区はこれらの3か町の北のはしにあたり、町の南境は横川橋通りであった。

この押上町も関東大震災の区画整理(昭和7年3月完成)と町名、番地変更で6区画に分れ、業平橋二丁目、業三、業四、平川橋三丁目、平四北部、横川橋三丁目北部となった。これが前記の押上町の形である。

業平という町名の起源は中ノ郷八軒町(現在の浅草通り伊北の吾妻橋三丁目)に「業平天神」が祀られていたためで、この「業平天神」は明治初年迄「在原神社」の名で中ノ郷八軒町の「南蔵院」にあった。平安時代の歌人在原業平を祀ったといわれるのが、この「在原神社」である。「江戸名所図記」と云う本に「在原業平が京に上がろうとして、この地で舟がこわれ、死なれたのを塚にしてとむらい。地名も業平村と云う」という意味の事が書かれていると土地の古老は伝えている。何れにしても在原業平か又は、その名に関係する塚にして、この地に「業平天神」が建てられたのもごく自然の縁起といってよい。「南蔵院」は山号を業平山と称し、大岡政談の「しばられ地蔵」で古くから有名な寺であったが、区画整理で葛飾区へ移転した。このように業平の地名の起こりはまことに由緒部会ものである。

なお、業平橋は寛文2年(1662年)に、当時の奉行伊奈半十郎によって「南蔵院」から東方約百メートルの地点に作られた。長さ7間、幅2間の板橋で、「業平天神」にちなんで命名された。現在の洋式鉄橋は昭和5年3月に架設された。

業平の中心を東西に走る浅草通りは、区画整理にともなって現在の広さに拡張されたが、都電は大正2年11月に業平橋から押上駅前に延長開通となって居た。

(業平二丁目町会資料より転載)

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押上天祖神社

押上天祖神社由来

押上天祖神社は、明治5年10月元押上村の村社に烈士祭日は9月16日と定められて、今日に及んでいる。その起因するところによれば、古くは延元年間(1336-1339年)より祭ってあった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠木正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で、今から600余年の昔に当たる。

当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。

祭神は天照大御神と八幡、春日両大紳を祭ってある。

また一説には現在の京成橋付近で川が増水して堤防に押上られてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。其の頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、明治5年村社に列する事となり、明治11年の記録には「武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田八畝十八歩、この代金十六円八十銭、同村天祖人や、同所畑二十五歩、この代金二円五十銭」という文献が残っている。

天祖神社は呼名を朝日神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混交時代で、徳正寺という寺が管理していたのが、明治初年に行われた神仏分離により、神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天祖神社は其の末社と云う事になっている。

又大正10年に大祭が行われ、同12年の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄は、平川橋4丁目地域にあったが、後、昭和3年の区画整理で、現在地に替地になったのである。境内は二百七十二坪五合五勺、大震災で焼失後社殿も新築されたが、昭和20年3月10日の戦災で、又も焼失した。そして昭和27年度大祭の折、再び新築し、続いて昭和32年の大祭には鳥居が再建され、又玉垣、塀、水屋等も出来、神社としての形体が整ったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社認可となっている。

昭和32年9月天祖神社境内に戦没者の霊を慰める為、高さ九尺五寸、巾三尺五寸の慰霊碑が建立された。現在の大神輿は明治21年5月5日に新調されたもので、今迄に関東大震災と戦災で二回に亘る災害にあったが、現在の神輿庫が奇跡的に焼失をまぬがれたので大神輿も当時のままの荘厳華麗な姿を起こしております。

平成18年には御鎮座650年を迎えた。

「押上天祖神社総代会資料より抜粋・加筆」

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境内の見所 

■三峰神社

境内の社殿に向かって左側に御鎮座しているのが当神社の摂社である「三峰神社」です。
「三峰神社」は埼玉県秩父にある秩父三社の一つで、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)の二神を主祭神をお祭りする社のことを言います。
「三峰神社」では御眷属である山犬を信奉する集まりを「三峰講」と呼んでいました。この「三峰講」は江戸時代に関東地方で広く流行しており、押上でも「押上講」の人々によって勧進されお祀りされたものと考えられていいます。残念ながら現在では「押上講」は途絶えてしまっており、境内にある溶岩を使った社殿に往時の面影を残すばかりとなってしまいました。

 

■大神輿について

押上天祖神社が所蔵する「大神輿」は明治21年5月5日に新調されたものです。神社に伝わる話では、押上天祖神社の大神輿は、深川、鳥越の大神輿と並んで江戸三大神輿の一つに数えられるほど大振りで勇壮な神輿として江戸っ子に大変人気があったと言われております。

天祖神社は関東大震災と昭和20年の戦災という2度の危機に見舞われましたが、両方とも奇跡的に神輿庫の焼失を免れ、大神輿は当時の姿を今日まで伝えることができています。

大神輿は老朽化が著しいため普段は一般公開されていませんが、9月に行われる神社のお祭り期間中のみ、お祭りで使われる時の飾りが施され、神輿庫に置かれた姿を見学する事が出来ます。現在でもその勇壮な姿を一目見ようとお祭りの期間中には全国から愛好家が集まると言われております。

 

■地元のオアシス

「押上天祖神社」は、おしなり商店街のある押上・業平橋地区の村社として広く地域に人々の崇敬を集める神社です。浅草通りから通りをわずかに隔てた場所であるにも関わらず、大変静かでどこか懐かしい境内の姿を今に伝えています。
主祭神は天照大神、春日神、八幡神の三柱を御祀りしています。押上天祖神社には普段は神職がおりませんが、牛嶋神社の末社としての格を与えられているので、祭事があると牛嶋神社から神職がやって来て神事を執り行います。
現在の押上天祖神社は、業平と押上の一部、全部で八ヶ町の氏神様として崇敬を集めており、それぞれの町のお祭りの中心になっています。
平成18年に御鎮座650年を迎えることが出来ました。今でもお参りの人が絶えず、町内会の行事等で地域の人々が集まる場所となっています。

境内には、本殿の他に、摂社の三峰神社、神輿庫、戦没者慰霊碑などがあり、おしなり地区のオアシスとして歴史に触れながら静かなひと時を過ごすことが出来ます。

(押上天祖神社 業平2-13-13)

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