押上・業平

押上天祖神社

押上天祖神社由来

押上天祖神社は、明治5年10月元押上村の村社に烈士祭日は9月16日と定められて、今日に及んでいる。その起因するところによれば、古くは延元年間(1336-1339年)より祭ってあった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠木正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で、今から600余年の昔に当たる。

当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。

祭神は天照大御神と八幡、春日両大紳を祭ってある。

また一説には現在の京成橋付近で川が増水して堤防に押上られてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。其の頃は下総国葛飾郡押上村で、其の後に武蔵国に編入され、明治5年村社に列する事となり、明治11年の記録には「武蔵国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田八畝十八歩、この代金十六円八十銭、同村天祖人や、同所畑二十五歩、この代金二円五十銭」という文献が残っている。

天祖神社は呼名を朝日神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混交時代で、徳正寺という寺が管理していたのが、明治初年に行われた神仏分離により、神官のいない為か牛島神社の区域であり、本社は牛島神社で、押上天祖神社は其の末社と云う事になっている。

又大正10年に大祭が行われ、同12年の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの頃迄は、平川橋4丁目地域にあったが、後、昭和3年の区画整理で、現在地に替地になったのである。境内は二百七十二坪五合五勺、大震災で焼失後社殿も新築されたが、昭和20年3月10日の戦災で、又も焼失した。そして昭和27年度大祭の折、再び新築し、続いて昭和32年の大祭には鳥居が再建され、又玉垣、塀、水屋等も出来、神社としての形体が整ったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社認可となっている。

昭和32年9月天祖神社境内に戦没者の霊を慰める為、高さ九尺五寸、巾三尺五寸の慰霊碑が建立された。現在の大神輿は明治21年5月5日に新調されたもので、今迄に関東大震災と戦災で二回に亘る災害にあったが、現在の神輿庫が奇跡的に焼失をまぬがれたので大神輿も当時のままの荘厳華麗な姿を起こしております。

平成18年には御鎮座650年を迎えた。

「押上天祖神社総代会資料より抜粋・加筆」